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こんにちは。韓国史の道しるべの大きなビョル先生のチェ·テソンです。
韓国ニュースの定番メニュー、青瓦台、大韓民国最高権力の象徴だった青瓦台が、5月になると国民皆の空間に生まれ変わるそうです。
でも、多くの方が青瓦台の話をされているかもしれませんが、実は青瓦台の始まりの話はあまりされていないようです。 青瓦台はこの74年間、大統領の空間になったのか、その出発にはですね、我々の辛い歴史がにじみ出ています。
我々が知らなかった青瓦台(チョンワデ、青瓦台)の話、1910年日本による植民地時代から始めます。
1910年、韓国の国権を強奪した日本は、最初に景福宮と後苑一帯を朝鮮総督府の所有として奪います。 大韓帝国を強制占領した日本は、これを正当化するために朝鮮を近代化させたという大々的な宣伝活動が必要でした。 そこで1915年、朝鮮総督府は日本の新聞物を宣伝するために、朝鮮王族の前宮である景福宮を破壊し、朝鮮物産共進会という博覧会を開催します。 そして景福宮を毀損したその場所に、朝鮮総督府の建物を新築します。
1929年に続いて朝鮮博覧会を開催し、景福宮の建物の90%以上を撤去します。
日本の植民地支配はここで終わらずに。 景福宮後苑、現在の青瓦台跡の1939年総督官邸を新築します。 ここを光復が来る前の6年間、7代、8代、9代まで3人の総督が官邸として使います。 その目的は、景福宮を塞ぎ、その前には朝鮮総督府庁舎を建て、その後ろには総督官邸を建て、朝鮮王室の気を抑え、民族の精気を抹殺し、この国を永遠に支配しようとしたことです。 ついに全国民が念願していた光復が訪れましたが、今度は総督官邸が、1948年3月まで米軍軍政庁司令官であるジョン·リード·ハッジ中将の住居として使われました。
1948年8月、大韓民国政府の樹立とともに李承晩執務室兼官邸につながった警務隊。 李承晩政権が退くまで、今の青瓦台はこの警務隊という名前で呼ばれました。
興宣大院君が景福宮を中権する時、この近くに景武台という建物があったので、その名を取って使ったのです。 1960年の4·19革命後、ユン·ボソン大統領が就任し、独裁政権を象徴する警務隊という名前を変えるべきではないかという世論が生まれ、今の青い瓦屋の青瓦台という名前を持つようになりました。 このように歴代大統領の執務室や官邸として使われていた旧青瓦台の建物だった旧総督官邸の建物は、1993年11月、ついに歴史の中に消えていきます。 民族の精気を正し、国民の誇りをよみがえらせた別の意味で、キム·ヨンサム大統領の指示で撤去されたのです。
大統領官邸と青瓦台、本館、秘書棟が新築され、多くの国民に記憶の中で悲しい歴史も消されましたが、韓国民族の精気を断ち切ろうとした青瓦台の痛みは隅々まで残っています、
ソウル特別市鍾路区青瓦台路1番地74年間、大韓民国の大統領と共にした青瓦台。
ここであった誇らしい歴史、また辛い歴史、このすべての歴史を我々は記憶しなければなりません。