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こんにちは。韓国史の道しるべの大きなビョル先生のチェ·テソンです。
光復後、大統領官邸として使われた青瓦台、ところがここは多くの歴史的な話や文化財、そして優れた風景も残しています。 5月10日、すべての空間を国民に公開する青瓦台。
散歩、運動、休息、思索すべてが可能な都市の緑の空間です。 それでは、隅々まで隠されていた青瓦台の文化財と風景についてのお話を始めてみましょう。
都心の中の国民の憩いの場に戻ってきた青瓦台。 その中には120種類余りの本当に美しい木々が並んでいます。 その中でも断然目立つ木は樹齢が740年を超えたこの注目です。
この木は高麗忠烈王4年計算してみると、1278年頃に根を下ろしたものと推定されています。 高麗の文宗と粛宗の時、南京に宮殿が建てたという記録が高麗史に残っています。
また、太祖実録にも高麗粛宗の時に経営した宮殿の旧跡が狭すぎて、その南側の宮殿跡を定めた
という記録があるんですけれども。 高麗から朝鮮時代まで、ここ青瓦台の場所は王室の所有であり、美しい風景を誇ってきました。
現在南西側の本館進入路とこの迎賓館一帯には、耕農材などの農業奨励施設がありました。 緑地園と比西洞一帯の南東側には、龍門堂と龍舞堂と呼ばれる科挙試験場と4列目の施設がありました。 そして大統領官邸がある北側には王が休息を取る五雲閣や運命占いなどがありましたが、日本による植民地支配時代にはほとんどの建物が取り壊されていきます。
そのため景福宮の後苑だった青瓦台は1980年代以前まで伝統的な韓国料理の建物が全くありませんでした 日本式の建物だけが残るようになりました。
そのため、1983年に伝統韓屋のサンチュンジェを建て、その後は外賓の接見場所として使用してきました。
次に、青瓦台の中にある文化財を見てみましょう。
代表的には慶州方形台座、石造如来坐像があります。
青瓦台のシグネチャー、秀麗な容姿で美男仏像、青瓦台仏像という異名も持っています。
おそらく9世紀頃、統一新羅時代に制作されたもので、日本による植民地時代に寺内初代朝鮮総督が慶州の仏像をソウルに移したものです。 この総督がこれをまた日本に持って行こうとしたんですよね。
その当時、マスコミの批判で失敗しました。 この宝物を守り抜いた大切な逸話もあります。
この石仏坐像の近くにはもう一つの文化財があります。
王の憩いの場だったオ·ウンジョンは、ソウル市有形文化財102号で、景福宮の改築当時の興宣大院君によって建てられました。 型板の文字は李承晩大統領が直接書いたものとされています。
青瓦台の西南には七宮が位置しています。 朝鮮時代に王を生んだ側室の位牌を祀った祠堂です。 英祖(ヨンジョ)が李宗廟(イ·ジョンミョ)の母の位牌を祀ることができず、悲しみ、青瓦台(チョンワデ、青瓦台)跡の母の祠堂を建ててその由来が続きました。 七宮は宗廟とともに朝鮮時代の描写制度、思想構造、祭祀の方式など、貴重な研究資料として評価されています。
青瓦台は指定、非指定、文化遺産と自然遺産を含めて約60件の文化財があります。
光化門に入って景福宮を通り、北門を開けて青瓦台につながるこの大切な文化遺産の道
そして北岳山と仁王山、漢陽都城城郭道へと続く自然探訪路まで、今や青瓦台は我々皆の空間となっています。 青い5月、皆様の新しい物語と思い出を、開かれた青瓦台で一緒に作ってください。
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